山に関係のあるスズ地名に、スズモリ・スズヤマ・スズクラ・スズミネ・スズタケ・スズオカなどがある。今回はその中の「すずもり」を考えたい。
11、鈴ヶ森
旧陸軍参謀本部が明治15(1882)年に作成した五万分の一地形図には、東海道が品川宿から東京湾の海岸を南下して大井村の南に「鈴ヶ森」とある。これが今日の品川区南大井2丁目に残る東京都の史跡「鈴ヶ森刑場跡」に当り、今は刑場跡の東北に鈴ヶ森中学校が、北に離れて鈴ヶ森小学校が建ち、この一帯がいわゆる「鈴ヶ森」であることを示している。
ところが「鈴ヶ森」の地名を突っ込むと、これがそう簡単ではなくなってしまう。
大井村の南に不入斗(イリヤマズ)村(現大田区大森北1〜6丁目)がある。その海岸の東海道沿いに「八幡祠」とあるのが鈴ヶ森八幡宮で、「鈴ヶ森」の地名は、こっちが本家と『江戸名所図会』は主張する。いわく、「鈴森八幡宮、いわゆる磐井神社これならん。後世に至り、祭神定かならざれば磐井に因み岩清水八幡宮を勧請せしなるべし。総社磐井神社とも称す。鈴石、当社にあり。
他の石をもってこれを撃てば、その石、鈴の音ありと。この霊石によりてこの地を鈴石森と云い、後に略してすずもりと云ふといへども詳らかならず。
(山崎闇斎の紀行文)『遠遊紀行』に、この社に旧有一石転之則其声如鈴とあり。或は云ふ、昔の石は賊の為に奪われたりと云ふ」と。
詳しくは知らないとしながらも、鈴の音を発する霊石があることから此処を「鈴石森」と呼び、略して「すずもり」になったと述べる。
ちなみに「不入斗」は、『和名抄』に出てくる「余戸・アマルベ」で、年貢を免除された「その他」扱いの荒地を云うものらしい。
地図が作成された明治期には、くまなく水田に利用されているが、刑場が設けられた頃は、郊外の不毛地だったようで、或は大井村の「余戸」扱いの土地だったかもしれない。
この「不入斗」は不評だったか、地図の東に見える「停車場(大森駅)」の南にある「新井宿村」を併せて「入新井」に改め、この地名は「大森北」地区に変った現在も、公園や図書館など公共施設に残されている。
ついでに地名の配置についてもう少し述べておくと、大森南端は呑川を挟んで「糀谷・コウジヤ」になるが、大森の海に突き出た部分は「森ヶ崎」と呼ばれ、その東に今は羽田空港がある。
そこで「鈴ヶ森」の「すず」は後にまわして「もり」をはっきりさせたい。磐井神社の宮司さんは、海から眺めて大きな森に見えたから「大森」と呼ぶようになったと話し、これは確かに云えそうである。なにしろ海岸の集落で、木々が重なる大森地区は、海から見れば大きな森のようだったかもしれない。同じように磐井神社の木立も森に見え、刑場の辺りも木立に囲まれて森に見えたかもしれない。
いったい「森」とは何だろう。漢字を教わるとき、「木」を二つ並べて「林」、三つ重ねて「森」と教わり、「森」と「林」の違いは樹木量によると考えがちだが、用例を当ると二つのコトバは全く別な発想から生れたことが分る。
秋田と青森県境には有名なブナ林がある。栗駒山麓には原生林がひろがる。富士山麓は果て知らない樹海で、「森」はなかなか登場しない。
古木が生い茂り、日の光も届かないジャングルは「密林」で、灌木などがからみあって人が入れないところは「やぶ」と呼ばれる。これらを見ても日本の森は、妖精や小人が登場する欧州の森とは違っている。木の数や混み具合の問題ではない。
松林とか杉林とは云うが松森とか杉森などは聞かない。「森」が使われる代表は「鎮守の森」である。
ウブスナ(産土)の神を祀る空間を聖地とし、やたら立ち入ることを慎しみ、その草木は皆で大切にした。その特別に保護された場所を「もり」と呼ぶのは、樹木がたくさんあるからではなく、黒々と盛り上がった木々が、遠くからでも一目でそれと認められたからだろう。山や丘でない平地の社でも、「鎮守の森」は遠くからはっきり見て取れる。
ハヤシという言葉は、「生やし」からきたものだろうし、おそらく日本のモリは、「森」であるよりは「盛り」が語源だろう。岩手県「盛岡」の地名は、日本のモリの素性を端的に示す好例である。
例えば山形県最上郡金山町には、丸森608m・八森562m・八森381m・飛森461m・水晶森1097m・黒森1057m・檜木森960m・鉤掛森838mと「森」のついた山がたくさんある。山の代りに森と呼んでいる。
東北と限らず「丸森」「黒森」「高森」「大森」という山は全国に分布する。
高知県高岡郡大野見村に「鈴が森1054m」があり、宮城県柴田郡川崎町には「鈴ヶ森山」の小字があって、これも「山」の可能性が高い。宮城県登米町の「狐ヶ森」は、町一番の高山だが頂上は森も林もなく草が生えるだけである。「もり」というのは、そこが山や丘でない平地の場合も、盛り上がって目立つところだろう。
モリは「盛」と片付けて、肝心のスズはどうか、刑場と磐井神社はどっちが本家の鈴ヶ森だろう、これまでの考察では、山麓や丘陵の辺縁部にスズ地名が認められた。中には全く山とは関係なさそうな場合もあったが、それはあくまでも例外だった。この鈴ヶ森も、かなり遠くの大森駅前に武蔵野丘陵が迫るだけで、山とは無縁の「例外」になるだろうか。
後の国鉄東海道線は、1872(明治5)年6月、品川と横浜間に開通し、武蔵野台地の東端をかすめて鉄路を敷設した。前掲の地図に「停車場」とあるのは、傍に「八景坂」が見えて今日の「大森駅」であることが分る。
今は更に海際を私鉄の京浜急行が並走し、その「大森海岸」駅を降りると、旧東海道を拡張した第一京浜(国道15号線)が片道4車線の大動脈として南北に走っている。これに沿って北に600mほど上ると「鈴ヶ森刑場跡」に至り、逆に駅の南を下ると、由緒ありげな古社が目につく、これが今日の大田区に属する「磐井神社」である。
おおまかに、大森駅を頂点に鈴ヶ森刑場と磐井神社は、東の海岸を底辺に、一辺が700mほどの正三角形の関係になる。
江戸末期に刊行された『江戸名所図会』は、名所案内に添えた絵図が人気の一因らしく、文章では分らない多くの情報が読み取れる。
埋め立てが進み、はるか東に遠のいた東京湾も、絵図の昔は街道のすぐ傍で、江戸に向かう大名行列の一行が通り、絵図の左手、松並木の向うに「磐井神社」の草屋が見え、海側に「磯馴松・ソナレノマツ」も見える。
荷を負う付き人も辛かろうが、お駕籠の貴人も楽ではなかったろう。なるべく揺さぶらないように、そろりそろりと慎重に歩いて時間もかかったろうと、電車の運転と比べて、埒もないことまで思ってしまう。
左手の遠景は今の大森駅前に迫る武蔵野台地の高みで、そこにいたる海岸低地は今、建物が密集して地表は隠れてしまったが、明治の地図では一面の田圃になっている。
絵図は「鈴の森」とし、案内は「鈴森(スズガモリ)八幡宮」と表題を掲げ「磐井神社」を紹介している。
この『江戸名所図会』の記事と『大田区の歴史』(新倉善之)と大田区教委の案内板によってまとめると、「磐井神社」は現在、大田区の文化財に指定され、「延喜式神名帳」に記載される古社であり、「三代実録」には、貞観元年(859)「武蔵国従五位下磐井神社官社に列す」とあって、当社を武州八幡社の総社に定めたとされ、徳川将軍も参詣したという。
こういう立派な格式のある神社だが、近くの歩道橋から眺めると、林立する高層ビルと片道四車線の高速道路に埋没して、「延喜式式内社 磐井神社」の石柱が、遺跡の所在を示すように見えてしまう。
磐井神社にはまた、区文化財の「鈴石・烏石」があって、この石が「鈴ヶ森」地名の由来になっているという。
「鈴石」は現在、社務所の玄関に展示され、社伝によると「神功皇后が長門国豊浦(トユラ)の砂上でみつけ、香椎宮に納められたが後に豊前国宇佐宮に遷され、神勅によって宇佐宮の神祇伯(ジンギノハク)石川年足(トシタリ)に授けられた。その後、年足の孫豊人が延暦元年(782)に武蔵国の国司に任じられ、荏原郡の地を支配して当社を経営し、神石を当社に奉納した」という。
「鶏卵のような形で二尺ほどの大きさ」とあるが、左右対称のラグビーボール型に近く、見たところ25kg程度で、神社によくある力石に見える。
神功皇后伝説は北九州の海岸地帯に多いが、関東では聞かない。とにかく上下左右が対象で自然石には遠く、だから不思議といえばそうでもあろうが、明暦4年(1658)に山崎闇斎が著した『遠遊紀行』には、この石が盗まれたことを伝えるというから、現存の石はコピーかもしれない。
『江戸名所図会』は、もう一枚の絵図を掲げ、これが現存の神社にぴったり重なり、絵師の観察が厳正であることを実証する。
現在は社殿が一つで左手に社務所がある。昔は本社の手前に拝殿を置いた二重の構えだった。また左手に小さな鳥居を置き、池をめぐらせた小屋に「烏石」と記してある。現在は社殿の右後ろに文人の石碑を並べ、もとは烏石と共に弁天池に置いてあったと説明される石群である。池の中央にある小屋は弁天堂で、これらは今もそっくり残っている。
正面の鳥居の前に老翁がひとり腰をかがめて神社を拝する形に見え、その手前に垣をめぐらせて東海道の往来を隔している。この鳥居前に立つ老翁の右手に小さな屋根をかけた四角い構造物が見える。これは現在、車道と歩道を境する植え込みに埋もれるように残る「磐井の井戸」だろう。
『武蔵野地名考』に、「この井戸水は、祈願者が妄願であれば塩水となり、正しい願いであれば清水になった」とあるが、おそらく「鈴石」よりはこの清水が磐井神社のいわれであり、信仰の源であったろう。
現在はぎりぎり歩道際にある鳥居も、江戸の末期までは今の歩道よりも広く余裕をとって街道と隔てられ、さらにその昔は、六七町東の方に第一の石華表(イシノトリイ)があった。宝永の大地震で折れて海中に没したが、上古はこの辺りまでが社地だった。江戸時代になって東海道の整備がすすみ、社地の中を往還するようになり、今日は更に後退を余儀なくされている。
海辺から続く参道と、「磐井の井戸」と磐井神社の名称を並べて愚考するに、おそらくこの神社の原型は、海浜にすなどりして暮らす漁民の素朴な水信仰に始ることが偲ばれる。
海浜の真水は貴重である。まして清水となれば神慮を感じ信仰心が生じる。潮の加減でしょっぱくなれば、祈る者の心がけが悪いと謙虚に反省した。
おそらく、磐井神社だから岩清水八幡がふさわしいとしたのは、新しい土地の支配者に対する迎合によるだろう。
宮司の話では、東京オリンピックの頃までは水が出た。しかしその後どうなったかは分らない。ただ砂地を掘った井戸ではなく、岩盤から湧き出たことは間違いないとのことだった。
そこで最初に掲げた地図に戻って考えたい。海岸にある「磐井の井戸」は、おそらく700メートルほど内陸の武蔵野台地につながるだろう。
先の絵図は、武蔵野台地と海岸の間に一連の小丘を描いている。大分前に大森の駅から「刑場跡」を探して歩いたとき、それらしい高みを途中で見た記憶がある。当時は格別の意味がある丘には思わなかったが、絵図が画く丘陵がこれに相当するなら、ここに磐井神社の意味も隠され、スズ地名の由縁も含まれるように思われてくる。
大森駅は明治の鉄道工事で武蔵野台地を削り、今の西(山王)側に八景坂とあるのは、もとは台地上に突き出た荒藺崎に上る坂だった。ここに「鎧掛松」があって別名「荒磯松」と呼ばれた。
おそらく今の駅舎辺りまで岬がかかり、この下を「あらい」と称した。標高差が10から15メートルに及ぶ台地突端はここで突然消えるのではなく、この岩盤の余勢は小さな丘になって海浜につながり、その先端に清水をもたらして住民の信仰を促し、また先端部分を土地の人々は「スズ」と呼んで古くから親しんだ。つまり刑場跡も磐井神社も、どっちが本家ではなく共にスズだった。このように考える。